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陰陽師の待遇の変遷

一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる仙籍と呼ばれるいわゆる殿上人(てんじょうびと)は従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下人(じげにん、しもびと)あった。
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律令制定当初は、方技である各博士や陰陽師には、もっぱら先進各国から来日した渡来人の学僧が任命されていたが、修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材が登用された。これは、僧籍に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、かつ僧籍にある者に対して還俗(げんぞく)(僧籍を脱して俗人に戻ること)を能動的に強要するには勅令をもってしか考えられず、このような勅令を乱発することもはばかられることから、俗人官僚に陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとの目的によるものである。

当初は四等官(行政官)と方技(技官)は厳密に区別して任命されていたほか、7世紀後半まで、技官である各博士ないし陰陽師に任命された学僧が就任する際には勅令によって還俗していた。ただ、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになっている。ただ、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である「官位相当」の原則によって方技の職制のままでは位階を上げることができないため、「権職(ごんのしょく)」(員外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。

しかし、838年(承和5年)を最後に遣唐使が廃れた(894年(寛平6年)を最終回の遣唐使とする説もあるが、この回は大使・菅原道真が中止を勧上して実際には行われなかったとする説が有力)ことにより、大陸本土の唐から優秀な渡来人を招聘する機会が失われた(朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかった)。わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技(技官)の育成を続けた結果、9世紀の平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなうポスト不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一ポストとして利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇ポスト化する傾向を見せた。この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家へのポスト充足を主目的とするものであった。

後に10世紀に入って、後述の賀茂氏と安倍氏の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが朝廷中枢に重用されたため、賀茂氏と安倍氏は、その実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され従四位下格にまで昇進するようになった。特に安倍氏は後の11世紀には従四位上格にまで取り立てられるようになり、12世紀の室町時代には、将軍足利義満の庇護を足がかりに常に公卿(三位以上)に任ぜられる堂上家(半家)の家格にまでなり土御門家を名乗るようになったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、近世において江戸幕府から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、明治時代初頭まで隆盛を誇った。

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2009年04月02日 16:49に投稿されたエントリーのページです。

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